その存在理由
KUROU All Rights Reserved.







 外はぼんやりと霞みがかっている。

 松本には霧雨が音も無く降り注ぐ。遠く見える北アルプスの峰々は、闇の中でひっそりと佇んでいるのだろうか、ここからでは見る事ができない。
 すでに7月だというのに、雨は晴れる事がない。長い梅雨は、未だに草花を濡らし、ねっとりとした風が肌にまとわりつく。

 高耶は、しんと静まり返る自室でひたすらに外を眺めて居た。別に何が見えるわけでもないが、ただ目線をそこにただよわせて居た。
 部屋には高耶一人だ。先程電話があり、美弥は友達の家に泊まる事になったらしい。そろそろ期末テストの時期だ。勉強会と、銘打っての泊まりであった。何度か紹介された事もある女友達だった。心配性の高耶も、彼女なら安心して妹を預ける事が出来る。

(…すこし過保護なのかな)

 父親もいない家。いるのはただ一人。別に寂しいわけじゃないけれど、一人きりの部屋の中はどこか物悲しい。家の中が静かだと、団地の宿命か、隣の家の物音、上の階の足音が響く。
 慣れてるつもりでも、もっと静かにしてほしいと思ってしまう。きっと、自分が散々荒れていた時期には迷惑もかけただろうに、とちらと思いながら、時計を見る。

 まだ時刻は8時を過ぎた所だ。
 が、高耶は一人きりになると、夕食も怠ってしまうほど自分の事はどうでもよくなってしまう悪い癖がある。それでも、腹は減る物だ。

(仕方ないか、コンビニでも…)
 と重い腰を上げかけた時、一台の車のヘッドライトが窓の眼下から滑り込むように眩しく映った。暗闇に溶け込むような、ダークブルーベンツがそっとライトを消すと、じっとこちらを伺っているように静かにエンジンを切る。

 男の顔はここからではあまり良く見えなかったが、高耶は直感的に誰か分かったようだった。慌てて靴も履き揃わぬように、重い玄関の戸をあけて飛び出す。

 階段を登ろうとしている男と目が合った。
「よく、私だとわかりましたね」
 男はにこやかに笑う。しっとりと、髪を濡らし、手には先ほどの車のキーを持って居た。
「な、なんとなくだよっ。それに、別に迎えに来たわけじゃないからな。コンビニに行こうと…」
「…財布も持たないで、ですか?」
 こちらをおちょくるように、男はまた笑う。
「それに、靴、ちぐはぐですけど」
 男が面白そうに、指先を下に向けた。はたと自分の足下を見ると、片方はサンダル。片方は履き慣れたシューズだった。かっと顔が赤くなる。背後で、開きっぱなしだった重いトビラが閉まる音が響いた。

 直江信綱は、この前と同じダークスーツをきっちりと着込み、少し濡れた前髪をかきあげる。その仕種一つ一つに、高耶は目が離せない。
「ちょうどよかった、貴方を迎えに来た所だったんですよ」
 わざとなのか、高耶の弁解も聞くまでもなくクスクスと笑う。
 なにも突っ込まれなかった方の高耶は、益々バツが悪そうである。

「なにか用事なのかよ。こんな時間から働けっても、オレは嫌だからな」
 少しふくれながら、今だうっすら残る夢のような戦闘の傷跡が残る腕を摩る。
「あぁ、そう言う事ではなくて。お食事にでも、と思ったのですが。これからコンビニにでも買いに行こうというのであれば、少し付き合って下さい」
「お、おごりなら別にいいけどなっ」
「もちろん、あなたにおごってもらおうなんて思ってませんよ。明日の朝に松本を発つので、その前に高耶さんもお勧めの馬刺しを食べてみたくなりましてね」
「んなもん一人で行けよ、それにねーさんは?」
「晴家ならもう帰りましたよ。明日は大事なコンパがあるとかないとか」
「なんだそりゃ」
「彼女も現役の女子大生ですからね。いろいろと忙しいようです。と言う訳なので付き合ってもらいますよ。美耶さんや御家族の方は大丈夫ですか?」
「ん、美弥は泊まり、親父は帰りが遅いから」
 大丈夫、と素直に答えた。
 結局、断るそぶりは見せたものの、どこか嬉しそうに言う。

「では、行く前に…」
 言うなり、それ、と指差すのは高耶のちぐはぐな靴だ。
「分かってるよ!」
 慌てて高耶は一旦家に戻り、揃ったスニーカーに履き替え、しっかりドアにカギを閉めて戻ってきた。直江は霧雨の中、濡れるのも構わずに車の助手席の横で待っている。鳶色の瞳が、遠くからでも高耶を放さないように見つめているのが分かる。
 そんな彼の目と視線が重なるのが苦手で、高耶は俯きながら小走りに駆け寄ってくる。

「濡れてるじゃねーかっ。別に待って無くても良かったのに」
 男は、何も言わずに流れる動作で助手席のドアを開け、また、高耶も当然のように滑り込む。言葉とは裏腹にそんな動作をする高耶を、直江は複雑な表情でドアを閉めた。




 あなたがお勧めする、と言いながら、直江はすでに店を決めていたようだった。
 あれから少しばかり車を走らせた。
 実は、あれから乗りたかったと思っていたベンツに乗れるというだけでも嬉しい高耶なのであった。車内にはそれほど会話もなかったが、気分がいいのか、高耶は終止窓の外を見ながら顔を緩めている。
「美弥にも乗せてやりてぇな」
 と、流れる景色を見ながら、ぽつりと呟く。
 やはり乗り物は男の子だったら憧れるものだ。高耶の家には、現在自家用車はない。小さい頃に、父親に乗せてもらったのを薄らと覚えているだけだった。あれはどこへ行く途中だったのだろう。隣には、微笑む母の姿があったような気がする。
「高耶さん…」
「はは、なんでもねぇよ。今どき車に乗るのが珍しい訳でもないのにな」
 この男と居ると、なんだか自分が弱くなるような気がする。今までなら、こんなつい数日前に知り合った、しかも訳の分からない騒動に巻き込んだ人物に、心を許す事などしなかったはずだ。大人は汚くて狡い。子供の事なんか何も考えていないのだと信じていた。学校の教師だって同じだ。馴れ合うつもりなどなかったのに。
 その存在全てから、懐かしさを覚える。

「もう少しで着きますよ」
「あ、あぁ」
 男の声で我に帰る。
(おかしな事、考えてたな)
 対向車の眩しいライトに眼を細めながら、高耶は隣の男の横顔をちらりと覗いた。






 もっぱら高耶が馬刺しを食べるのはスーパーで購入したものらしい。この年齢で馬刺しだの刺身だのを好物としているのは珍しいのではないか、とふと思ったが、昔の彼を思い浮かべると納得してしまう。
 本当にこの人は記憶がないのだろうか?と疑いたくもなる。

 直江が選んだのは、赴きもある小さな小料理屋だった。
 あれからどういう道を走ったのか、高耶にはさっぱり分からないが、そんな遠くはない。小さいが、小奇麗で、けっしてジーパンとTシャツの子供が入っていいような店では無かった。

「こ、ここかよ」
「えぇ、御不満でしたか?松本でも美味しいと評判のお店だとか」
「でもオレ、こんな格好だし」
「大丈夫ですよ、二階の座敷きもちゃんと予約しましたから」
「そういう問題じゃなくてだな…」
 どう考えても、『高そうな』店だった。

 なんのためらいも無くそそくさと行ってしまう直江に、高耶は慌てておくれぬように付いていった。のれんを潜ると、直江は「橘」と名前を告げ、淡い藤色の着物姿の店員が二階へ案内する。
 店内は、落ち着いた和風の赴きで、壁紙は黒と朱の和を強調させるものだった。カウンターと、奥には格子で区切ったこじんまりとした座敷きが数個あり、しっとりとした琴の音のような音楽が流れている。
 店のカウンターに座るほろ酔い加減の客が、なんだか異物を見るように高耶をちらりと目の端で追った。
 どの顔も、安く薄まった酒を出す五月蝿い居酒屋の客というような顔は居なかった。一般人よりも「上」の服装を着込んだ客ばかりである。確かに、高耶はここに出入りするような格好でも、年でもない。
 本当に、酒を楽しむ大人の店だ。
 無意識に、高耶は直江の上着の裾を掴んでいた。
 早く登れとばかりに、先を急かす。



 そこは、小窓から町を見おろせる小さい座敷きだった。それでも、二人だけでは広く、そして中々の居心地の良さだ。二階にはここしか部屋が無く、五月蝿い雑音も、流れる邪魔な音楽も聞こえない。
 雨も止み、窓を開けていいかとせがむ高耶に、男はどうぞとすすめて座敷きに座る。


 そこそこな年端の女中は、ここで少し驚く光景を見る。
 てっきり上座に座るのはダークスーツの男だろうと思っていたのに、男ははしゃぐ少年が窓を開け、自然と奥に座るまで待ち、静かに手前に座った。
 初めは兄弟かとも思ったが、二人が交わす言葉の端に、そういう家族のような馴れ合いは無かった。
(まぁ、兄弟だとしても男二人でくるというのは珍しい客だ)
 どうもおかしな組み合わせだとは思ったが、ここは意外と著名人も愛顧にしてもらっている。もしやどこぞの御曹子か、と一人納得してしまう。少年に敬語を使うのもきっとその為だ。
 こちらの視線に気が付いたように目を合わせた男に慌て、取り繕うように注文を聞き、静かに障子を閉めて足早に階段を降りる足跡が聞こえた。


 湿った風が、高耶の黒髪を撫でる。
 むっとするような風だが、頬をかすめる風は、気持ちがいい。高耶は、窓を全開にして手すりにもたれ掛かるように外を見ている。眼下を覗く瞳は、下を這いずり回る車や人を嘲るような目線で、じっと見ている。それは自然と無意識に、彼が持つ独特の視線。きっと、本人もどんな表情をしているのかすら意識していないのだろう。
 唇の端を少しだけ釣り上げて、うっすらと笑う。その表情。


 ふと、ある光景が浮かぶ。

 直江は、眼を細めてその姿をだぶらせた。
 激戦の合間の、静かな静寂。京の町の、あの時の景虎を。
 記憶を手放してまでも、同じ仕種だ。憎らしい程に。
 ただし、その時は疲れ切った笑みだった。


「なんだよ、じろじろ見やがって」
「いえ、なんでも…」
 そっと、分からぬように苦い顔をうっすらと笑みで隠した。

「で、なに注文したの?オレ腹減ったから食えるのがいいなぁ。でもやっぱ目当ては馬刺しだろー?ビールはちゃんと注文したんだろうな」
 一通り夜風を満喫した高耶は、やっと向かい合う男に目線を送った。結局自分では頼まず、全て直江任せだ。それに、ここにはメニューも置いていないから仕方ない。
 テーブルにはすでに箸休めの佃煮や塩辛などが小さい小鉢にもられている。
「するわけないでしょう。未成年に飲ますものは100%ジュースがお似合いですよ」
 少しむっとして、呆れ顔になる。

「おまえ本気か?こんな所まで連れてきて酒がねぇの?」
「もちろん私も飲みませんよ。車で来ましたからね」
 マジかよ〜と大袈裟に騒ぎ、両手を後ろに引き、ずるりと背中をまるめた。それからしばらくぶつぶつと文句の言葉を列ねたが、仕方なくちびと塩辛を箸でつつく。ぺろっと舐めた。
「これ、すげー無駄じゃね?」
 酒のつまみであろう小鉢にもられたものを、行儀悪く箸でつつく。
「目当ては馬刺し、ですからね」
「ちぇ」
 本当に頼んで無いのかよ、とつまらなそうに正面にいる男を上目遣いで見る。



 ちゃんと腹の足しになる料理も注文していたようで、高耶は遠慮なくぱくついた。
 和のフルコースと言った所か。次から次へ、出来たての料理が運ばれる。もちろん、目当ての馬刺しもしっかり頂き、もう食えないとばかりにごろっとそのまま仰向けに上半身を投げ出した。
 直江は、ゆっくり馬刺しをを口に運ぶ。

「やっぱ酒がねーと盛り上がらねーよ」
「そうですか?」
「馬刺しに酒はつきもんだって」
「あなた、どんな高校生ですか…」
 呆れてため息が漏れる。

「でも、美味しかったな、ここの馬刺し」
 こんな美味しいの、始めてかもしれない。と頬を緩めた。
 それはそうだろうと直江は頷く。直江は、自分の為にでは無く高耶に喜んでもらおうと、ちゃんと店の評判をチェックして予約したのだ。
 抜かりは無い。




 店を出た二人は、しばらく夜風に当たりながら車を止めた駐車場までゆっくりと歩いた。ねっとりと絡み付く暖かな湿った風が、木の葉を揺らし葉に張り付いた雫を降らせる。

「あー食った。やっぱ和食はいいな」
 片手でお腹を摩りながら、うーんとばかりに背伸びをした。

 どこまでも無邪気な高耶に、直江はどこかほっとしたような、しかし寂しい気持ちになる。

 ―――初めから、こんな他愛無い関係だったなら。

(何を期待しているんだ)

 男はすぐに自分の吐いた言葉を飲み込んだ。




「直江ぇー!早く開けろよ」
 すでに高耶が車の助手席側で手を振っている。



 手の届く所に、それはある。
 触れてしまえば脆く崩れる幻影のように。
 記憶などどうでもいいとさえ思ってしまう。力などなくても、魂があるのなら。
 しかし、それではあの四百年の我々はどこへ消える。
 どう見繕う。

 この人の中から俺という存在が消えていても、俺はそれでいいのか。
 拒絶された自分。
 当然だろう。

 うっすらと、冷たく笑う。

 無邪気すぎるその姿に、憎悪すら覚える。


 今すぐにでも、壊してしまおうか。
 無邪気に笑う、その笑顔を砕いてやろうか。


 そうしたら、もう一度俺という存在を誇示できる。
 二十七年の苦しみを、あなたは知らない。

(本当に、どれだけ私を苦しめるのか)

 その存在事体を呪うように。
 もう一度心の中で鈍い炎が燃えるように、唇の端を釣り上げ、苦しみの笑みを浮かべた。


 雲が早く過ぎ去る。
 風が出てきた。
 合間から、星が瞬く。

 明日の松本は、良く晴れるだろうか。






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余談。

「てっ……痛ててっ……」
 帰り道、突然助手席で唸る声がした。
 先程まで静かだった高耶が、腹をかかえて唸っている。てっきり眠ってしまったものだと思っていた直江は、びっくりして道路脇に車を停める。
「ど、どうしたんですか景虎様!」
「腹、痛てぇ……」
「まさか先程の料理が!?」
 なんたる失態だ、そのような腹を下す食事を出すような店に連れて行ってしまったのかと自分に対して怒りが込み上げてくる。
「ちが、うっ……多分」
「どう言う事です。先ほどの料理が痛んでいたのでは…」

 しばらく腹を抱えて、高耶は苦笑いを浮かべた。
「さっき、家にいた時にアイス三本食べたんだ…」
「………」
 へへ、と笑いながらそれでも苦しそうだった。
「まったく貴方という人は…」
「うぅ〜ダメだ、トイレ」
「たっ高耶さんっ!そこではダメですよ、耐えて下さい。もうすぐ家に着きますから」
 耐えろと言われても、こればっかりは理性でどうにかなるものでもない。
 腹が痛い時はどうにも脂汗と言う物が出てくる。
 直江は、片手で運転しながら高耶の背中をさすってやった。さすってくれても、痛いのはそこじゃない。あまり意味は無いように感じたが、それでも少しは気を紛らわせる事が出来た。

(無防備な人だ)
 やれやれ、と直江は思う。
 そしてどこか、そんなふうに自分に弱味を見せる景虎を信じられぬように、ふっと肩の力が抜けた。





《終》








なんだか変な終わり方…
ちょうど2巻の後くらいのお話だと想像していただければ嬉しいです。
あーでも、綾子が加わった時に飲み会をしているし、そこで馬刺しも食べてたりもする。。。
あんまりつじつまが合って無いような気もしますが、そこは目をつぶって下さい;
夜叉衆がわいわいやっているのも大好きなので、夜叉衆がらみは増やして行きたいです。そう思うと、本編では「夜叉衆五人組」とならなかった事が寂しいですね。邂逅編で、色部さんの見方が変わったかな?