光の中で
KUROU All Rights Reserved.
どんなに願っても、どんなに祈っても。
想いは届かない。
己が消えさえすれば、それは成就するというのに。
だったら、今すぐ自分を殺してほしい。
自分の中の卑しい獣が、慟哭する。
その前に、彼から自分を消してほしい。
これほど人を呪った事はあるだろうか。愛した事はあるだろうか。
冷たく凍り付く心を、暖めてくれた人。
あなたが許してくれるなら、灼熱の中に身を投じて、二人だけで落ちて行きたい。灰塵になるまで、繋がっていたい。
それは叶わぬ夢なのだと。
何度も思い知らされた。
縛り付けるたびに離れて行くようで、それでも錆びた鎖を離せない。自らの手を錆びた鎖で傷を負い、血を流しながらしがみつく。引き寄せられたおまえが、屍に成り果てているとも知らずに………
きっと優しい手が暖めてくれるのだと勘違いをして。
誰もいらない。おまえだけでいい。オレだけを見ていてほしい。その瞳に、他の誰もを写させない。貪欲で獰猛な支配者に、きっと自分も支配されていたに違い無い。そうでなければ、おまえを傷つける事も無かったのだろう?
息絶える前に、そうなる前に、腐った鎖をちぎって逃げてほしい。
おまえには、それが出来たはずなのに。
近付こうとすれば、きっと逃げて行く。
求めてはだめだ。求めれば求めるだけ、おまえは苦しいのだろう?苦しめてしまうのだろう?後ろから抱き締めるその腕が愛おしかった。求めるのではなく、そんな生易しいものじゃなく。
お互いに貪り、喰らいつき、二人溶け合いたい。世界が滅んでも、星が落ちても、おまえがいてくれればそれでよいと。
オレ一人の我侭だろうか。おまえは許してくれるだろうか。
永劫の時の中へ。
証明してみせてほしい。
永遠というものがあるのなら。
ひとつだけ、夢の中でいいから、叶えてほしい。小さな夢を。
緩やかに流れる時の中、なにもなくてもいい、ただゆったりとした光り。
そんな光の中を、二人で歩んでいきたかった。
「眼が覚めましたか…?」
うっすらと目蓋を押し上げると、光りが注ぐ。眩しすぎて眼が焼けるような、光り。海底にいるような、ゆらめく白い世界だ。無音の中で、彼の声だけが聞こえる。
ふと、視界に優しい笑顔が浮かんだ。ぼやけていた世界に、薄らと浮かぶ懐かしい顔。見覚えの有る鳶色の瞳と、彼独特の薫りが、高耶を徐々に眠りから覚ましてゆく。
眩しいと、目を細めて両手を翳す。それに気が付いたのか、男は身体で光を遮断して、なお覗き込んでみた。軽く頬を撫でるそのひんやりとした指先に、やっと高耶は言葉を紡ぐ。
「…なお……」
「お疲れの様ですね」
「なんで、おまえが……」
いまだぼうっとした頭の中で、ここはどこだっただろう、と巡らして、もう一度目を閉じてみた。目蓋から、光の欠片が薄らと浮かび上がる。
「砦の人員について少し訂正がありまして、資料を確認していただこうと思ったのですが……。眠っていたのでこうしてお待ちしていました」
目を細め、優しく包み込むように微笑む男は、普段の事務的な言葉遣いではなく、そっと語りかけるような優しい声色だった。その大きく長い指先は、彼の髪を優しく撫でる。
ソファーの前にあるガラスのテーブルに、数枚の書類が置いてある。それに気が付くと、高耶は眠気をおしやって、現実に意識を戻した。
「…なんで起こさなかったんだ。うたた寝してたんだな」
重く石のように重い身体をなんとか起こそうと、肘をつき、思わず男の腕を掴む。しかし、その掴んだ手を逆にとられ、また深くソファーに身体を沈み込ませる。起こしてくれる物だと思っていた高耶は、不思議そうに直江を見返した。
「昨日は夜遅くまで足摺アジトで作戦会議に出ていたのでしょう?もう少しお休みになった方が、身体にはいいんですけどね。それに、寝不足の顔で砦内をうろうろされても、部下に示しが付きませんよ」
「何度も言うけどな、別に寝なくてもオレは平気だ。…お前の方こそ、こんな所にいていいのかよ」
「…さて、そろそろ誰かが探しに来ますかねぇ」
「……って、オレどのくらい寝てたんだ?」
「私が訪ねた時にはちょうど11時頃でしたか。もう昼過ぎですね」
「…まったく、おまえも少しは砦長らしくしろ。それに……」
と、はたと自分が今居る場所を見回した。そして自分の変化を。少し襟がはだけ、ズボンのベルトが緩い。靴は綺麗にソファーの下に揃えられていた。
「………おまえ。オレに何かしたか?」
そうなのだ、高耶は、宿毛の軍団長の部屋のデスクの前にいたはずだ。あれこれと今後の作戦を一人で考え、地図とにらめっこをしていた。それが今は黒皮のソファーに横にされているではないか。
ふと首を回すと、先程まで座っていたデスクがある。今までの資料や、攻略計画、砦見取り図などなど、資料が散らかっていたはずなのだが、綺麗に整頓され、しかもきっちりと仕分けまでしてあるのが分かる。
デスクの背後にある大きな窓からは、カーテンの隙間から光が差していた。
「してませんよ、靴を脱がせて少しベルトを緩めただけですから。あんな所で寝て。椅子からずり落ちるのではないかとひやひやしましたよ」
「…おまえな……」
「散らかっていた資料と地図は片付けました。砦の防衛策は無謀とも取れるようなものですが、中々意表を付くもので私はいいと思います。しかし人員が問題ですね。この砦からも少し部隊を別けた方がいいかもしれません。装備品や予備の武器も、多めに準備しましょう…それに、今日は軍団長のあなたがこの砦にいるというだけで、みんな張り切っているみたいです」
どうやら、先程まで考えていた高耶の作戦資料を片付けながら見ていたようだ。
人員の事は、高耶が一番悩んでいた問題だ。
この男には何もかもすぐに通じる物が有る。
自分の戦略を、理解している男がいると思うだけでなんだか力が抜けるようにほっとする。
「…そこは、オレがカバーすれば……」
「またそんな事を……」
呆れた男からのびる優しい髪への愛撫は、高耶をまた微睡みの中へと引きづりこもうとしていた。うとうとと、しばし何も考えずに男の指の感触を楽しむ。
それからすこし、未だにぼーっとした頭の中を整理しだした高耶は、何かを思い出したのか、いきなり上半身を起こした。危うく覗き込むように高耶を見守っていた直江の額に頭付きされる所であった。
「た、高耶さん。どうしたんです」
「そうだ、こんな事してる場合じゃない。資料をまとめて足摺に帰らなくちゃいけない」
慌ててソファーの下に揃えられた黒い皮のブーツに足を通す。
「昼食もしないで、今からバイクを走らせる気ですか?」
「あぁ、今日はオレ一人で来たし、用も済んだから。兵頭に指示もしないままま任せて来ちまった。早く帰ってまとめた資料を渡さないといけないし…」
兵頭、という言葉を聞いて、直江の瞳が微かに細くなる。高耶の肩を押さえていた腕に、自然と力が入ってしまった。そんな彼の変化に、少し戸惑いながら、高耶は放してくれない彼の腕を押し退けようと少し身じろぎをする。
「昨日の夜から、ろくに食事もとっていないのでしょう?」
「そんな時間ねぇんだからしょうがないだろ」
直江の胸を押し退け、靴紐も結ばぬうちに慌ただしく先程まで作業をしていた机に向かう。一つひとつ資料を見直し、すっかり仕事モードの顔に戻っていた。
「あと、お前の資料も見ておくからこっちに……」
と、机に揃えられた資料を、必要な物だけピックアップしていた高耶の手首を、直江は突然強く掴む。驚く程強い力に、高耶は目を丸くして男を振り返る。資料が、手からすり抜けて床にばらばらと落ちるのを気にする事なく、直江は被いかぶさるように細い腰に手を回した。
「なにす…っ」
「また、少し痩せましたか?」
じっと、その細い手首を見つめた。そんな男の鋭い眼差しが、高耶を捕らえて放さない。なにもかもを見すかすように心の中に侵入する。こういう瞳は、苦手だった。
たしかにここ数日は忙しくて、食事といっても夜中にやっと食べられる程度だ。
不規則な生活が続く中、自分がやらなくてはいけない事項すべてを背負っている。これでもまだやりたりないくらいなのだが、自分の体調についてはあまり気にしていない。それがまた直江には心配の一つだった。
「今日はここに泊まりなさい。砦長の私から連絡すれば、大丈夫でしょう。また、ちゃんと健康診断を受けて下さい。中川にも連絡をしておきますよ」
「…いい加減にしろよ、直江。我侭にも程が有る。オレは忙しいんだ」
「我侭なのはあなたです。あなたの身体を気づかってはいけませんか。せめて食事くらいは済ませてください」
「だから…オレは……」
「それに先程寝言で、不味いだの美味しいだのと言っていましたよ。お腹が空いているからそんな夢見るんですよ」
「…げ、オレそんな寝言……」
と、きゅる…と腹が鳴った。
なんだか丸め込まれてしまったような気がする。
結局、食堂におりて遅い昼食を食べる事になった。半ば強引に連れてこられた食堂は、昼を過ぎても隊士たちが賑わい、または資料を片手にあれやこれやと議論を交わしている。
二人は、それぞれ定食を頼むと、トレーを持ち空いているテーブルに腰を落ち着かせた。
「なんだ、お前も昼まだだったのか?」
「えぇ、先程『ずっとあなたを見守っていた』と言わなかったでしたっけ」
「…そんなこと聞いてねぇし」
なんだかまた不機嫌になる。
おもむろに割り箸を割ると、ずるっと少し温い味噌汁を啜った。
周りにいた食堂に居合わせた隊士達は、不機嫌な高耶の横で、そんな彼と肩を並べて食事をし、どこか対等に会話をしているのを聞いて遠巻きながら眼を奪われている。
四万十を束ねる軍団長の高耶と、砦長とはいえ橘義明はやはり身分は違う。しかしそこは『現代人』同士の絆の強さなのだろうか?と羨望の眼差しで見られる事が多々あった。
「なんだよおめーら、またつるんでんのかぁ?」
そこへ明るくやって来たのは、武藤潮だ。少し濡れた髪をかきあげ、首にはタオルをひっかけている。軽くシャワーを浴びた後なのだろう、身体から少し蒸気が立ち上っている。
「潮、おまえもここにいたのか」
「しょぼーい連絡役よ。あー無駄に疲れたぜ」
どかっと高耶の正面の席に座り、ラーメンをのせたトレーを置く。ずるずると食べはじめた。その食べっぷりがいいものだから、高耶と直江はしばらく呆然となってしまう。
「そういえば、橘、お前どこにいたんだよ。みんな探してたぜ?」
「あぁ、ちょっと子守りを」
と悪びれる事も無く答える。
ぴく、と肩が震えたものの、高耶はむっすりとしてカツオのタタキをほうばっている。
「まぁ、いいけどよ……後で谷野の所に行ってやれよ。渡す書類があるだとか騒いでたけど。そだ、それより仰木、頬んとこ、なんか付いてるぜ」
箸で高耶の顔を指し、にやりと笑う。
頬?と自分の顔を手で撫でてみるが、良く分からなかった。
「…それって、涙の跡とかじゃねーの?おいおいー誰が泣かしたのかなぁー?」
と、ちらと隣で食後の珈琲を飲む男をちらりと見やった。
黒いミリタリーウェアに身を包んだ直江は、少し微笑んだだけだ。
「…なっ涙の跡ぉ?」
と、ぎろりと隣の男を睨む。
「あ。やっぱそういう事?」
呆れた顔で、潮はラーメンをすする。
やっぱりこの二人は「な〜んか違うんだよなぁ」と改めて心の中で呟いた。
直江は、ちらと潮を見ただけだ。
「ちょっと、なお、じゃなくて橘、こっちこい」
「仰木隊長、ちょ、まだ飲んでません」
高耶は、トレーを片付けると強引に直江を食堂から連れ出した。飲みかけの珈琲を残し、仕方なく直江もトレーを片付ける。
「あらら。仰木〜あんまり叱るなよ〜」
と、潮はひらひらと箸を握っている手を振って見送った。
「橘が来てから、仰木のやつ妙にくだけるようになったし。いいことなのかもな」
と、一人納得して、潮は残ったスープを一気に飲み干した。
(ここのラーメン、あんま美味しくねぇんだよな…)
平らげて、ふくらんだ腹を少し撫でる。
「…お前、これどうして言わなかったんだよ。絶対知ってただろっ」
連れ込まれたのは、大きな鏡がある共同トイレだ。身を乗り出してよく見ると、確かにうっすら跡がある。目尻からこめかみへ流れる筋と、頬の筋。確かに良く見ないと分からない程度だが、この顔のまま歩いていたのだと思うと少し恥ずかしい。
勢いよく蛇口を捻り、じゃばじゃばと顔を洗いはじめた。
「…寝言で、私の名前を呟いたから」
「はぁ?」
「涙まで流して、どんな夢を見ていたんです?」
「…なんだそれ、覚えてねぇよ」
高耶が、無造作に手を差し出す。タオル、と言っているようだ。直江は自分のハンカチを手渡しながら、やはり意味ありげにそれ以上は言わなかった。
「いえ、覚えていないのならいいんですよ。…すこし意地悪をしたかっただけですから」
「…ったく、なんなんだよ」
ぐいとハンカチを返すと、ちろりと睨んで出ていってしまった。
数時間前、直江が軍団長室へ赴き、ノックを何度か試みた。
しかし返事は帰ってこない。
いないのか、とゆっくりとノブを回すと、カーテンの隙間から光りの射す中、机の前で眠りこけている高耶を見つけた。窓は少し空いていて、書類が床に散らばっている。外からは、隊士達が身体を鍛えているのだろうか、銃術のかけ声や輸送隊のジープが行き来している微かな雑音が聞こえる。
眠る顔に、厳しさはない。始めて出会った頃の、少年のような寝顔だ。何度か宿も一緒になったことがある。無防備な寝顔に、しばし切なくなった。
これほど、まだ幼いのだ。彼は。始めて仰木高耶に出会い、色々な事がありすぎた。彼を急激に変化させたものは、きっと自分に違い無いだろうが……。こうして眠る高耶を見るのも、ここ数週間無かった事だ。
「高耶さん」
そっと声をかけたものの、起きる気配はない。
彼は、今朝一人でやってきた。少し調べたい事がある、とそれっきり部屋へ隠ってしまったのだ。目の下には、うっすらと疲れの跡が見て取れる。
ちらばった書類を片付けると、直江は椅子からずり落ちそうになりながら眠っている高耶を抱きかかえると、応接用の黒いソファーに移してやった。
成人男性にしては少し軽い。
細い肩が痛々しくなった。
(身も、心も、削り取られていくようだ…)
この人から、なにもかもを奪っていくように。
そんなこと、絶対させてはいけない。
靴を脱がせてやり、苦しくないようにと襟を少し開けてベルトを緩めてやる。このまま襟の中に手を滑り込ませたら、どんな反応をしてくれるのだろうか。このまま部屋に鍵を掛けて、彼の喉笛に噛み付いてみようか、と意地悪い考えが浮かんでしまう。無防備な彼を、他の人に見せたくは無い。
「…ん……」
ふと、高耶が睫毛を揺らし、唇から苦悶のようなうめき声をあげた。直江はまだ何もしていないのだが、手を止めて自分の疚しい気持ちが伝わってしまったかと少し焦ってしまう。
「……起きてしまいましたか?」
「…なお……ゆ…るし」
「高耶さん?」
「ゆるして……くれ…のか…?」
どうやら寝言のようだ。すこし眉をしかめながら、目蓋が震えた。顎を仰け反らせながら、ぽつり、ぽつりと謝罪の言葉を並べる。額にはうっすらと汗が浮かぶ。どんな悪夢なのだろう、自分に許しを乞う悪夢など、あってはならない。そんな悪夢など、許す事は出来ない。
しかし、彼の夢にまでも存在していると想うだけで、直江は愛おしく、今にも苦悶している彼を抱きかかえたくなってしまう。その衝動を押さえ、どんな内容なのか気になった直江は、ゆっくりと黒く滑らかな髪を梳いてやりながら、誘導尋問をするように語りかけてみた。
彼の耳もとで、そっと、風のように。
「何を、許すの?」
少し間があり、直江の言葉を理解したのか、夢の中で答える。
「……………お…まえが………オレを…………」
素直にこちらが囁いた言葉に反応してくれる高耶に、直江は少し面白くなってしまった。
「私を、愛していますか?」
耳もとで囁いてみる。
やはりまた少し間を置いて、高耶がぽつりと反応した。
「ん〜〜……あ〜…それ焦げてる………」
(焦げてる?)
…途中で違う夢にすり変わってしまったようだ。肝心な部分が聞けなかったが、眠っている間に囁いてみるというのも存在意識の中で本音を聞ける有効な手段なのだと確信した直江であった。
そこで少し寝返りをうつ。自分の身体を抱きかかえるように、身体を横にして丸くなる。
うっすらと、まつげが濡れる。閉じた目尻からすっと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……不味い…」
(……不味くて泣いているのか?)
どんな夢を見ているのだろう。
そこには俺がいるのだろうか。
すべての貴方に、俺は刻み込まれただろうか。
いや、でもなんだか焦げたとか不味いとか、ちょっと面白い夢なのかもしれない。そんな平穏な世界に、あなたと俺がいるのだろうか。
そんな世界を、あなたが望んでいるのだとしたら。
そっと涙の筋をなぞってみる。
俺の為に、泣いてくれているのか。
愛おしく、なんども線をなぞる。
「…愛しているから。なにも怖がる事なんてない」
首筋をなぞってみる。細く、しなやかなうなじ。すこし髪の毛が伸びただろうか。
あれから規則正しく小さな寝息をたてて、眠っている。
涙も乾いた。
静まりかえった部屋の中に、二人だけの呼吸音が響く。
時折、窓の外から隊士達の声が聞こえる。
ざわめく森の木々。小鳥のさえずり。
光りの差す中、ここは時が止まったように、静かだった。
ここ最近、こんな安らかな寝顔を見ていない、と思いを巡らせる。夜叉衆を導く彼の横顔は、この四百年かわらず厳しい横顔だった。赤鯨衆に身を寄せるようになってからもそれは変わらない。
記憶の無かった17年が、彼の安らぎだったのかもしれない。
もしかしたら、「やり直し」などではなくてあのまま何もかも忘れて、『彼』の側にずっと居るつもりだったのかもしれない。本当の友人として、ずっと側に。いや、それは無意識の中のやり直しだ。
彼が始めて弱音を吐いた。「殺してくれ」と。赤く熟れた左目に、血の涙を流しながら訴えた。四百年でただ一度の、絶望だったに違い無い。今まで、宿体を粗末にした事など無い彼が、殺してくれと崩れ落ちた。
安住の地はどこなのか。
この世には無いのかもしれないが。
直江はそれを否定する。この世に無いのだとしたら、それは完全な魂の消滅しかない。昔、直江本人が願っていた自分の結末だ。苦しみから逃れるには、消滅しかないのだと。
あどけない、まだ子供の面影が残る寝顔に、直江は改めて見入ってしまう。
もう、いくつもの彼の宿体を見て来た。
見て来たはずなのに、思い出せない。
目の前にいる彼が、全てなのだと。
寝息をたてて、薄く空いた唇に、そっと己の唇を重ねてみる。
優しく口付けて、もう一度何かを言おうと高耶の唇が動いたのでそっとはなしてやった。
「…なに、高耶さん」
「……光りの……なか……」
ふと、潤んだ瞳がゆっくりと、目蓋の奥から覗かせた。
まだ少し朦朧としているのか、眩しそうに直江を見上げる。
「…なお……」
「目が覚めましたか?」
残しておこうとふと思った。
自分を思って流した涙の跡を。
許しを乞うように流した涙。
もう一度。直江は涙の軌跡をなぞってみる。
《終》
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